<オーナー渕野浩士のプロフィール〜音楽〜ギター〜CANTALOOP>


1960年代
1963(昭和38)年5月1日、大分市生まれ
 音楽とは全く関係ない土建屋の長男として生まれたが、父親が意外にも音楽が好きだったこともあり、家にステレオがあり、音楽を聞く環境にあった。
イギリスでジミヘンドリックスやクリームが現れた頃、日本ではGSブーム。4歳の時にザ・タイガースに夢中になり、初めて彼らのLPを手にする。
アメリカ合衆国ではアポロが月面着陸に成功し、ウッドストックミュージックフェスティバルが開催され、イギリスではレッドツェッペリンがデビューした1960年代後半には野球に夢中になり、大分の長島茂雄になりたいと思うようになる。(買ってもらったユニフォームには当然背番号3番をつけていた)
 
1970年代
日本に欧米のロックバンド達が相次いで来日をするようになった1973年頃にはアイドル歌手の麻丘めぐみの虜になり、10歳にして「歩く明星」と言われるようになる。
1975年頃には当時、ブームだったBCL(BroadCastingListener)にはまり、海外の短波放送を受信する事が日課となる。その海外で聞いた番組の中で流れたビートルズのイエスタディを聴き、洋楽の魅力を何となく感じる。
1976年中学生となり、野球部に入部。(そこには2つ上の先輩に元巨人軍の岡崎郁さんも居た。)当時人気TV番組だった「俺たちの旅」を毎週欠かさず見て、大学生になったら中村雅俊みたいになりたいと思う。同時に当番組の挿入歌が好きになり、フォークギターを弾いてみたいと思うようになる。しかし当時「中学生になったら洋楽!」みたいな風潮があり、周りではビートルズやベイシティローラーズ、オリビアニュートンジョンらが大人気。エレキギターを欲しいと思うが高くて買ってもらえず、スーパーのダイエーで6800円のフォークギターを買ってもらう。
1976年11月のことだった。学校の友人達とフォークグループを結成し、ギターを持って公園や友人宅に集まり練習の日々。そうするうちにレッドツェッペリン、ディープパープル、キッスやエアロスミスなどロックに傾倒、ついにフレッシャーの白のストラトキャスターのコピーモデルとエルクのアンプを買ってもらう。また洋楽に詳しい友人からジェフベックの存在を教えてもらい、衝撃を受ける。新たに組んだロックバンドではキッスのコピーを始める。中学3年生で転校することになり、最初はそんなに友人もいないので、ギターの練習に明け暮れる。レッドツェッペリン、ディープパープルの曲を中心にコピーをするが、邦楽のチャートに入った曲なども手当たり次第にコピーするようになる。しかし、ヒーローはリッチーブラックモアだった。
1978年11月末、新設校の記念すべき第一回目の文化祭で野外ライブを行なう。ディープパープルのライブインジャパンの再現という事でハイウェイスターに始まり、スペーストラッキンでしめたライブだった。
(野外で大音響でハードロックを演奏した為、近隣から苦情が殺到し、その後数年間はこの中学校ではロックコンサートが禁止されたというのが語り草になっている)
中学卒業の1979年頃には「ディープパープルよりもレッドツェッペリンの方が格好いい!」!と思うようになる。
1979年4月、高校入学のお祝いでかき集めたお金で、当時発売直後だったトーカイのストラトキャスターモデルを購入。3万6千円だった。なぜかまたストラトを買ってしまった。この頃は休日は15時間はギターを弾いていた。と言うか気がつけば15時間経っていた。また猛練習、クラプトンのデレク&ドミノスのアルバムのおかげで、アドリブとは何なのかを自力で発見する。同時に近所のおばさん達からは「エレキに狂った渕野さんところのバカ息子」と口にされだす。

1980年代
1980年5月、河合楽器のオーディションに合格し、初めて大きなステージである大分農業会館大ホールでレッドツェッペリン、ディープパープル等を演奏をする。この時、人前で初めてアドリブでギターソロをする。どうしてもハードロックをやるにはボーカルの力量に不満があったため、ボーカリストをクビにし、あとのメンバーで、当時流行っていたクロスオーヴァーを目指す事にする。最初はクリエーション、サンタナ等から始める。
1980年秋の文化祭でそれらを披露。しかし、インストを地味に演奏して終わりでは、インパクトが無いと思い、ステージのラストにギターを生まれて初めて投げる。予想通り、凄い反響があった。この頃から大学に進学する事を心に決めたが、クロスオーヴァーやAORなどに完全にはまってしまい、ジャズにまで傾倒し始める。バンドはプリズムを中心に、ザ・スクエアなどのコピーに明け暮れ、大分の和田アキラになりたいと思うようになる。と同時に河合奈保子や松田聖子にも傾倒し、彼女達のバックで演奏しているスタジオミュージシャンも気になり始める山下達郎が好きになるのもこの頃からである。
1981年、ヤマハ主催のL-MOTIONで賞を獲得。OBSラジオのアマチュアミュージシャンの番組でも自分達の演奏する曲が流れたり、名前を呼ばれるようになる。そうこうするうちに受験の季節がやってきて、ギターも音楽も一時封印。大学進学と共に熊本での生活に入り、憧れだったカーリーヘアーにする。入学と同時にロック同好会に入るが、ニューウエイブな時代だったこの頃、自分の志向とは違うと思い、退部。同じようなサークルに入るが、居心地が悪くて退部。やっぱりジャズだと思い、ジャズ研に入る。生まれて初めてビッグバンドでギターを弾く。とても気持ちよかった。同時にリズムギターの虜になる。そこでは先輩達が上手く、いい環境だったが、あまりに練習に熱心なところで、パート練習が深夜にも及び、バイトが出来ない為にやむなく退部。その代わりに外部ではフュージョンバンド、オリジナルのロックバンド、パンクやロックンロールを演奏するバンドと3つを掛け持ちしていた。またテクニカルな演奏する音楽が馬鹿馬鹿しく思えるようになり、キースリチャーズのようなギタリストの方が格好いいのではないかと思い始めたのもこの頃である。当然、この頃からジャズやフュージョンは聴かなくなった。
1984年頃、ダンスパーティ等の演奏のバイトでは3時間、40曲ものレパートリーを一切譜面も見ずにこなしていた。
1985年頃から本格的に角松敏生に傾倒し始め、同時に黒人音楽に夢中になる。作詞、作曲、アレンジを本格的に始めるようになり、ギターをほとんど弾かなくなる。この頃の好きなギタリストは吉野藤丸やポールジャクソンJr.。結構、真面目な大学生活を送ったおかげで、大学4年生になり、ゼミ4単位のみの出席で卒業できる事になり、アパートを引き払い、実家に戻り、週一回だけ車で大学に通う。高校時代の友人と再会を果たし、ソウルやファンク系のバンドを結成する。(それが現在でも活動中のPOWER HOUSEである。
1986年頃から本格的にライブ活動を開始。様々なライブスポットで演奏。地元の音楽番組で自分の作った曲のリクエストがあり、気を良くする。1989年頃には単独ライブを始めるようになり、観客動員も常に100人を超えるようになる。

1990年代
1990年、ヤマハのバンドエキスプロージョン大分大会でグランプリを獲得し、九州大会に出場。TVにもオンエアされる。しかしその大会では何も賞をもらえず、意気消沈。
1990年以降、イヴェントや大学の学園祭などの演奏依頼も増え、単独ライブでは過去最高の観客動員数180人の記録を達成。オリジナル曲も増える。バンドは更にファンク色を強めていった。またプロのオープニングアクトも務めるようになる。1990年以降、仕事は年々ハードになり、全国を毎週、行脚するような生活が続き、このままでは音楽が続けられない事になりかねないという懸念があり、「このままではまずい。」と思い始める。
1995年頃、ライブをするにあたり、ライブハウスの貸切料金の高さに疑問もあり、大学生の頃からの夢だった、大分のバンドマンたちが気軽に使え、音楽好きの憩いの場になるようなライブスポットを経営する事を決める。やりがいのある楽しい仕事であり、団体職員という安定した生活を取るべきか、夢に向かって突き進むべきか大いに悩んだ結果、1997年、11年のサラリーマン生活にピリオドを打つ。34歳の夏だった。長女が4歳、長男が2歳の時だった。このころ楽器店勤務のバンド仲間がギタースクールの講師をちょっとだけやってくれないかと誘われ、河合楽器の講師となる。その後すぐ、メインの講師が急にやめる事になり、結局50人もの生徒を受け持つ事になる。妹と始めた店は当時大好きだったソウルミュージックから屋号を「ソウルバーカンタループ」とした。7坪も無いとても狭い店にメサブギーのアンプからドラムセットまで置いた。ドラムセットやPAのセットはとても脆弱なものだった。お客様は3日連続でゼロという日々が常日頃だった。生活が出来なくなり、持っていた楽器も手放した。ソウルばかり流していたら、自分自身がそんな音楽に飽きてきて、その日に聞きたい自分が本来好きだったロックも流し始めた頃からちょっとずつお客様が増え始めた。普通に飲み屋に来るお客様とバンドマンの人々が入り混じるようになり、このままではまずいと思い、店を二つに分けることになる。1998年の夏の事である。2軒目では音の苦情が大きな問題となり、わずか1年で転居。おかげで多少広い店となり、お客様も増える。この頃からトリビュートバンドの楽しさを覚え、ディープパープル、クイーン、山下達郎らのバンドを結成。トリビュートバンドを集めてライブを行い、盛り上がる。

2000年代
2000年8月にオフィスカンタループを立ち上げ、デザイン事業も始める。転居1年後の2000年秋、となりの店が閉店したので、店を拡張。そのおかげで、プロのミュージシャンもやってくるようになり、高校時代の憧れのバンドだったプリズムも来店。イヴェントも手がけるようになり、女性だけの音楽祭を開催し、TVや新聞、雑誌で大きく取り上げられる。
2001年より3年間、湯布院で国際交流イヴェントの音楽及び制作を行なう。
2003年春、大型商業施設パークプレイス大分のオープニングセレモニーの音楽をプロデュースする。
2003年秋、店の内装をリニューアル。この頃よりプロミュージシャンの九州地区のツアーも手がけるようになる。
2004年2月、韓国の釜山のライブハウスに乱入し、ギターを弾きまくる。
2004年6月、ツアーミュージシャンの想いを体感する為、車で日本一周を敢行。3軒件目の店も音の苦情が絶えず、ついに退去するよう命ぜられる。
2004年10月、やむを得ず、現在の場所に移転。資金が無かったので、ほとんど自分達で店を作る。
2005年5月現在では、自己のバンド「POWER HOUSE」の他、様々なスタイルのバンドにて活動中。

 

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